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熊本の妖怪
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 侍村の肥前陣は、天正十五年四月、豊臣秀吉の島津征討に呼応して出征した肥前(佐賀藩)の軍勢が陣を構えたところで、その名があるが、黒べこはそこを塒にしていた。
 黒べコは夜になると、黒褌をした裸の大男になって現われ、道行く人たちを驚かすのが得意で、“肥前陣の黒べコ“と言って恐れられていたが、別に悪さをすることはなかったという。
 ところが、水俣の町もだんだんと開け、山の麓も伐採され、チッソの工場も拡がってきて、餌場になっていたところも次第になくなり、また空気も悪くなって暮らしにくくなったからか、暮らし馴れた肥前陣を離れることにした黒ベコは、ある日人間に化け、どこかの船頭さんを騙して長島(鹿児島)に渡してもらったそうな。ところが、この船が長島の海岸に着くなり、その客人は船賃を船頭に払うと船から飛び降り、さっさと山の中に消えて行ったので、不思議に思った船頭がもらった船賃をよく見ると、それは全部木の葉じゃったという話である。

 
水俣市史「民族・人物編」より
http://www.city.minamata.lg.jp/960.html
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熊本の妖怪
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 二の坂の道筋ん山に「おまん」ちゅうこっけ狸が棲んどったげな。人間ば騙くらかすこた朝めし前、また歌が上手で人ばからこうては一人で?いや一匹で面白がっとった。噂ば聞いた人びとは、朝夕薄暗いうちゃみんな怖がって、こん峠ば越ゆるもんなおらんじゃった。
 ある日のこと、村の庄屋どんが、まだ明けきらん薄暗か中ば愛馬に打ちまだがり、気に入りのお供えば一人従えて狩に行く途中、今日の獲物ばあれこれ想像しながる二の坂ば登っとらしたげなたい。
 明けん明星が姿ば消すころ、坂ん途中の「下駄取り坂」ちゅうて、雨上がりにゃ下駄履いて通ればおっ取られるごつ粘り気ん強か赤粘土の坂道ばようよう登りきったとき、白々明けかけた朝露の中ば、庄屋どん方の下女がゼーゼー、ゼーゼー息ば切らしながる後ろから追いかけてきて、「旦那さん、旦那さん、奥さんが子供ん生まるっち騒動しとらすで、狩りは止めて早う帰って下はりまっせ」「なんてやッ、奥がお産を?……」突然のこつで庄屋どんな一瞬めんくらわしたが……、はて、今ごろ奥が子供ば産むはずはなか……こらおかしかぞ?ハハァ、こやつは「おまん狸」の仕業じゃな」瞬時に気付いたばってん、さすがは庄屋どんたい、顔には出さずいきなり馬ん上から腰の大刀を抜く手も見せずに下女を目がけて切り払った。哀れにも「おまん」狸の首はころりと落ちて泣き別れ。
 それからは、二の坂にゃ人間ば騙す狸は出らんごつなって、村人は安心して夜道でんこん坂ば越ゆるごてなったちゅう話たい。


水俣市史「民族・人物編」より
http://www.city.minamata.lg.jp/976.html
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熊本の妖怪
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 むかし、古里の田頭に「こんじんどん」ちゅう神さんがおらったげな。こん神さんなあんまり目立たんじゃったばつてん、いさぎゅう運の良うなる神さんで、お参りすれば金がようぬさるちいわれとった。
 ある日、村ん衆が寄り合いばして村ん中に農道ば造るごて決めた。ところが具合の悪かこてな、そん道ば通すところに金神どんが座っとらすもんじゃっで、ほかんとこれ移さんばんごつなったったい。金神どんな石でできとったで、村ン長老どんが代表で金神どんにお願いばせらしたげな。
 「金神どん、金神どん、村中で話し合いばして、こげ農道ば造るごつ決まったで、ほかんとげ移ってもらわんまんばってん、移ってよかれば軽うならんな。移るごたなかなら重うならんな」と頼まったちたい。そしたら、いつの間にか軽うならしたげな。 お陰で何か月か経って素晴らしか農道が出来上がったそうな。
 金神どんば移したところは石で囲み、回りに南天の木ば三本植えて、村中で祀ったそうたい。なして三本植えたか、その訳は誰も知っとるもんなおらんじゃった。また、そん訳ば詮索するもんな銭のぬさらんごつなるち言われ、尋ぬる者なおらんじゃったそうじゃ。
 今じゃ南天が何本も生えており、石も無くなってしもうたので、どれがどれだかわからんごつなってしもうたたい。
 (注)ぬさる……授かるの意

 
水俣市史「民族・人物編」より
http://www.city.minamata.lg.jp/971.html


この「金神どん」というのは元は陰陽道の金神のことだったと思うんですよね・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E...

それが信仰が失われていくうちに名前が縁起がよさそうなので性質が変化した挙句、このような民話として残ったのではなかろうか、と。なので、既存の金神の絵をトレースして福の神っぽい要素を付け足して改変、性質の変化と朽ち果て忘れられていくさまを描いています。

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今にも坂【いまにもさか】:熊本県下益城郡豊野村下郷小畑(現・宇城市)の話。ここに「今にも坂」という坂があるが、昔、ここに大入道が現れて通行人を驚かせた。以来、人がその話をしながらこの坂を通ると、「今にも」という声がして、その大入道が現れるという。「今にも坂」の名はこの大入道に由来する。(wikipediaの「大入道」の頁より。)
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クズ【くず】:五木村の祇園池にはクズと呼ばれる大きな亀も住んでおり、この池から約900メートル難れた祇園社(八坂神社)の間を毎年のように行き来している姿が目撃されていたという。(五木村民俗調査団編『五木の民俗』)

クズ・・・。名は体をあらわすと言いますが、この名前は何なのだろうと考えてみた所、蓑亀にたどり着きました。このクズは絵画の題材になる蓑亀ほど見た目が良い感じでは無いものの、藻屑をいっぱい体につけた亀だったのではないでしょうか。と、いうのを踏まえてそんな感じに描いてみました。

案外、葛の葉っぱみたいな色をしていたから「クズ」という名前で呼ばれてた、というオチかもしれないけど。
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うそ越【うそごえ】:天草郡一町田村益田(現・天草市)にうそ越と言うのがある。昔から物騒なところで、ある時二人の旅人が夜おそくここを通りかかって、「昔はここに血のついた人間の手が落ちて来おったそうだ」と言って、お互いにぞっとして顔見せた瞬間に「今も――」と声がして血の滴る手が坂を転び落ちてきた。二人は吃驚して思わず早足になり、少し行ってから、また「ここには生首が落ちて来おったそうだ」というとすぐにまた上の方から「今ああ……も」と声がして恐ろしい生首が眼の前にころころと転げ落ちてきた。二人はもうたまらず一所懸命に駆けだした。(浜田隆一『天草島民俗誌』)


うそ越・・・。
・・・・・・。
・・・。

いつぞやの「馬鹿様の石碑」といい、からかわれてるような気がして不安になってくる名称ですよね。現在の天草に存在するのかわかりませんが、宮崎県延岡市北方町と鹿児島県川内市中村町に「うそ越」という地名があるようです。九州にはよくある名前だったのかも。

上天草市(大矢野)の登立八幡宮に「うそかえ祭り」というものがあります。
「うそ鳥」にちなんだ祭りで、うそ鳥の「うそ」は口笛を意味する古語なんだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E...

鳥の名前に、峠を指す「越」をつけて「うそ越」なんだろうと思います。タブン。
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味生池の竜【あじうのいけのりゅう】:池上小学校の北側一帯は「味生池跡」とされる。肥後の国司・道君首名が構築した農業用ため池で、肥後国最初の大規模な利水事業として知られる。池は埋められ今はないが、池上(いけのうえ)の地名が残る。昔、この池には悪竜がすみ、村人を困らせていた。そこで池辺寺の住職が祈祷をしたところ、竜が出てきて「私は村に住んでいた女です。いじめられ、その仕返しに竜となり悪事をしたが、住職の祈りで目が覚めました。この罪滅ぼしに、日照りが続いたら、独鈷と鈴杵で雨乞いをすると降らせます」と言って消えた。その後、大干ばつが続き、朝廷から雨乞いの勅令があり祈祷したところ、30日間雨が降り続いたので、寺は領地を与えられた。それ以来、池辺寺を竜池院という。池辺寺跡は国指定史跡である。
http://www.kumamoto-waterlife.jp/imgkiji...

女性が転じた悪竜という部分をアピールしてみました。悪竜ではなく大蛇としている言い伝えもあるようです。妖怪というより西洋ファンタジーのモンスターっぽくなってしまいましたが気にしない。
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鎧ヶ淵【よろいがふち】:井芹川は大正のころまで、上熊本駅の裏を流れていた。そこに長さ50m、幅20mの淵があった。天正9年(1581)、隈本城主・城親賢が城外で死去した際、家臣が早駆けでお城に知らせる途中、誤って淵に落ち、鎧を着けていたので馬とともに死んだ。それ以来、命日になると淵の底から馬の蹄の音が聞こえるので「鎧ヶ淵」と呼んだという。
http://www.kumamoto-waterlife.jp/imgkiji...


似たような話しとして、以下のようなものがあります。

半兵衛どんの石【はんべえどんのいし】:半兵衛と犬童一族121人の遺体は人吉の矢黒(人吉城の西)の亀ヶ淵に葬られたが、旧暦の7月7日の夜になると、亀ヶ淵から馬のひずめの音や鎧や、武具の音が聞こえてくるという。かつて亀ヶ淵北の林の中に半兵衛どんの石と呼ばれる石碑があった。昭和40年の人吉水害後の球磨川改修の際に球磨川沿いに移され、のちに人吉市教育委員会によって保存されている。


半兵衛どんの石はどこに保存されているのでしょうねー。形状がわかれば描こうかな、とも思うんだけど。
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鐘ヶ淵の竜【かねがふちのりゅう】:昔、横手一丁目に長さ約30m、幅10mほどの深さ5、6mの淵があり、青々と水をたたえていた。夫の浮気を苦に、その淵に身投げをした女がいた。その女は竜となり、夫への怨みを晴らそうとする。それを知った女の父親は、「お前が怨むのはわかるが、そういう姿ではお前がかわいそうだ。やめてくれ」と諭した。すると竜は「これからは村人へ恩返しをするので、干ばつの時は鐘をここに沈めてください」と言い、淵の底に消えた。その後、干ばつの時にはこの淵に鐘を沈め、雨乞いするようになった。今はこの淵はない。
http://www.kumamoto-waterlife.jp/imgkiji...


雨乞い行事自体を「鐘巻(かねまき)」と呼び、旱魃の年、横手村手永と田崎村では女面の蛇身が鐘にまといついたつくり物を出して囃したそうです。権道村からは夥しい仮装の山伏を出して横手の鐘ヶ淵まで練り、田崎村の農夫が蛇の止(とど)めを刺す所作をし、鐘とともに淵に沈めると験(ききめ)があり雨が降った、とも伝えられています。(『肥後国誌』)

『肥後村々雨乞行列彩色画』全一七巻(熊本大学五校記念館蔵)や『鐘巻雨乞全略図』(国立歴史民俗博物館蔵)といった絵も残っています。鐘ヶ淵があった場所には観光用の看板があって絵の一部を見ることができます。
http://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase...


ついでに述べると、河童たちも鐘ヶ淵に住んでいたそうで、彼らの相撲を見ていた通行人にじゃれ付いて家まで押しかけた挙句、柿渋をかけられて追い返されたという伝説もあるそうです。
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マヨフ瀧の女【まよふたきのおんな】:加藤清正の次男がマヨフの瀧に行ったとき、女と25人の武士に襲われた。次男はすべてを仕留め、煙草を吸って一服していると、死んだはずの女が袴の裾をくわえて離さないので、小柄を口に差込みこじ開けてみたら、女は歯無しだった。(濱田隆一『郷土研究』六巻三号「肥後天草島の民譚(四)」)
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/064...

女は武士(野武士?)の一味と言うより、攫われるなりして飯炊き役をさせられていたといった、可哀相な境遇の人だったのではないでしょうか。歯が無いのは野武士に散々殴られた挙句に全て折られてしまったからで、加藤清正の次男が賊を退治してくれて解放されると思ったら、一緒くたに斬られた無念の想いが裾をくわえさせた・・・というイメージで描いています。歯がない者が小柄を差し込まないと開けられないほどの力で袴を咥えていたのだから、さぞかし強い怨念だったのでしょうね。

似たような構図と面積配置が続いたので女の顔のアップで攻めてみました。