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熊本の妖怪
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味生池の竜【あじうのいけのりゅう】:池上小学校の北側一帯は「味生池跡」とされる。肥後の国司・道君首名が構築した農業用ため池で、肥後国最初の大規模な利水事業として知られる。池は埋められ今はないが、池上(いけのうえ)の地名が残る。昔、この池には悪竜がすみ、村人を困らせていた。そこで池辺寺の住職が祈祷をしたところ、竜が出てきて「私は村に住んでいた女です。いじめられ、その仕返しに竜となり悪事をしたが、住職の祈りで目が覚めました。この罪滅ぼしに、日照りが続いたら、独鈷と鈴杵で雨乞いをすると降らせます」と言って消えた。その後、大干ばつが続き、朝廷から雨乞いの勅令があり祈祷したところ、30日間雨が降り続いたので、寺は領地を与えられた。それ以来、池辺寺を竜池院という。池辺寺跡は国指定史跡である。
http://www.kumamoto-waterlife.jp/imgkiji...

女性が転じた悪竜という部分をアピールしてみました。悪竜ではなく大蛇としている言い伝えもあるようです。妖怪というより西洋ファンタジーのモンスターっぽくなってしまいましたが気にしない。
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熊本の妖怪
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鎧ヶ淵【よろいがふち】:井芹川は大正のころまで、上熊本駅の裏を流れていた。そこに長さ50m、幅20mの淵があった。天正9年(1581)、隈本城主・城親賢が城外で死去した際、家臣が早駆けでお城に知らせる途中、誤って淵に落ち、鎧を着けていたので馬とともに死んだ。それ以来、命日になると淵の底から馬の蹄の音が聞こえるので「鎧ヶ淵」と呼んだという。
http://www.kumamoto-waterlife.jp/imgkiji...


似たような話しとして、以下のようなものがあります。

半兵衛どんの石【はんべえどんのいし】:半兵衛と犬童一族121人の遺体は人吉の矢黒(人吉城の西)の亀ヶ淵に葬られたが、旧暦の7月7日の夜になると、亀ヶ淵から馬のひずめの音や鎧や、武具の音が聞こえてくるという。かつて亀ヶ淵北の林の中に半兵衛どんの石と呼ばれる石碑があった。昭和40年の人吉水害後の球磨川改修の際に球磨川沿いに移され、のちに人吉市教育委員会によって保存されている。


半兵衛どんの石はどこに保存されているのでしょうねー。形状がわかれば描こうかな、とも思うんだけど。
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鐘ヶ淵の竜【かねがふちのりゅう】:昔、横手一丁目に長さ約30m、幅10mほどの深さ5、6mの淵があり、青々と水をたたえていた。夫の浮気を苦に、その淵に身投げをした女がいた。その女は竜となり、夫への怨みを晴らそうとする。それを知った女の父親は、「お前が怨むのはわかるが、そういう姿ではお前がかわいそうだ。やめてくれ」と諭した。すると竜は「これからは村人へ恩返しをするので、干ばつの時は鐘をここに沈めてください」と言い、淵の底に消えた。その後、干ばつの時にはこの淵に鐘を沈め、雨乞いするようになった。今はこの淵はない。
http://www.kumamoto-waterlife.jp/imgkiji...


雨乞い行事自体を「鐘巻(かねまき)」と呼び、旱魃の年、横手村手永と田崎村では女面の蛇身が鐘にまといついたつくり物を出して囃したそうです。権道村からは夥しい仮装の山伏を出して横手の鐘ヶ淵まで練り、田崎村の農夫が蛇の止(とど)めを刺す所作をし、鐘とともに淵に沈めると験(ききめ)があり雨が降った、とも伝えられています。(『肥後国誌』)

『肥後村々雨乞行列彩色画』全一七巻(熊本大学五校記念館蔵)や『鐘巻雨乞全略図』(国立歴史民俗博物館蔵)といった絵も残っています。鐘ヶ淵があった場所には観光用の看板があって絵の一部を見ることができます。
http://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase...


ついでに述べると、河童たちも鐘ヶ淵に住んでいたそうで、彼らの相撲を見ていた通行人にじゃれ付いて家まで押しかけた挙句、柿渋をかけられて追い返されたという伝説もあるそうです。
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マヨフ瀧の女【まよふたきのおんな】:加藤清正の次男がマヨフの瀧に行ったとき、女と25人の武士に襲われた。次男はすべてを仕留め、煙草を吸って一服していると、死んだはずの女が袴の裾をくわえて離さないので、小柄を口に差込みこじ開けてみたら、女は歯無しだった。(濱田隆一『郷土研究』六巻三号「肥後天草島の民譚(四)」)
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/064...

女は武士(野武士?)の一味と言うより、攫われるなりして飯炊き役をさせられていたといった、可哀相な境遇の人だったのではないでしょうか。歯が無いのは野武士に散々殴られた挙句に全て折られてしまったからで、加藤清正の次男が賊を退治してくれて解放されると思ったら、一緒くたに斬られた無念の想いが裾をくわえさせた・・・というイメージで描いています。歯がない者が小柄を差し込まないと開けられないほどの力で袴を咥えていたのだから、さぞかし強い怨念だったのでしょうね。

似たような構図と面積配置が続いたので女の顔のアップで攻めてみました。
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伝承妖怪お題絵:第16回
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オマク:オネキとも。岩手県遠野市に伝わる。生者亡者に関わらず、怨念や愛着恋慕の情が凝結して、形や声をなすという思想。幽霊とは別物とされている。(柳田國男『遠野物語』、佐々木喜善『遠野のザシキワラシとオシラサマ』)

twitterでやっている伝承妖怪お題絵の4月のお題。「幽霊とは別物」とのことなので差異を出したかったけど、結局出せず。難しいお題でした。
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山姥【やまうば・やまんば】:熊本県八代郡柿迫村の老人達は、山姥の存在を今でも信じている。山姥は、山から子を抱いて里におりて来て、「ちょっと抱いてくれ」とたのんで姿を消すことがあるという。熊本県上益郡緑川の老人の語るところによれば、山の木に山姥の髪の毛がひっかかっているのを漁師がみつけて持って帰ることがある。三尺くらいのものもある。漁師はそれを大事にして、山の神のところに置きに行く。ある時、ヘクソカヅラに小銭をつないでかけてあったことがあるが、山姥の仕業だろうと皆で話し合った。(丸山学『熊本県民俗辞典』)


むかし、大川内に一人の樵夫が住んどった。ある日奥山に入って材木ば切り倒しておると、突然目の前に山姥か何かわからん異様な女子が出てきて、「お前は、わたしば怒ろしか女子が出て来たち思うとっどが?山姥か川女かどっちだろうかと迷うとるじゃろが。ほら、いま、どげんして逃ぎゅうかち思うとっどが」と、その女ごは樵夫が思うとるこつや考えとるこつばいっちょいっちょ言い当てるので、なお恐ろしゅうなってガタガタ震えとった。
 「はあ、これが山姥とちゅうとばいなぁ」と思いながら、わがでも気づかんうちに木の小枝ば手に取って膝にあて、ポキッと力いっぱいへし折った。とこるが真ん中で二つに折れた切れっ端が、そん女子の向う面にパシッち音んするごて当たった。本人さえ全く思いがけんなかこてなった出来ごつに、この山姥の神通力も通ぜんじゃったっじゃろ、「お前は思わんこつばする男じゃな」と言い捨てて、姿ば消してしもうたちゅう話じゃ。
 “無意識に思いがけんなかこつばする人は怖か“ちゅう戒めで、さすがの山姥も手が出らんじゃったち話たい。(水俣市史「民族・人物編」)
http://www.city.minamata.lg.jp/973.html


阿蘇郡栗木村では、山姥が民家を借りてお産をし、それを親切に世話をしてやったところ、色々といいことがあった、という話が実話として語られている。(丸山学・熊本民俗民族学会『みんぞく』通巻十四号「山の神その他」)
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/220...


佐敷太郎峠(熊本県葦北郡芦北町大字海浦と熊本県葦北郡芦北町大字花岡を結ぶ国道3号の峠)にも、「村人が間違ってやまんばの家に逃げ込んでしまったとき、やまんばを風呂の中に閉じ込め退治した」という伝説があるそうです。


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↑鳥山石燕『画図百鬼夜行』の「山姥」の大雑把に模写してます。
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雷奇獣【らいきじゅう】:寛政八年(1796)六月一五日の夜大雷のとき、肥後国熊本領竹原というところに落ちてきたという。形は狼のようで、毛の長さは三寸五分(約10.7cm))ぐらい、その色は黒いと記されている。(常光徹・『歴史系総合誌・歴博』149号)

元の絵が真上から見た図なのか、正面から見た図なのかイマイチよくわからない上に、立体的な構造も読み取れないので、それっぽければいいやぐらいに描きました。なんで手足が蟹のハサミみたいになってんだろ。

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